〜 「歌う技術」って? 〜
指揮者:高橋 英男
時々聞かれる言葉に、次のようなものがあります。
A「○○合唱団は、技術はないけど、歌心がある」
B「**合唱団は、技術的には優れているけど、歌心がない」
C「△△合唱団は、技術ばかりを追求している合唱団だ」
D「うちの団は○○発声法だから、××音楽向きではないので、そういう
曲には取り組まない」
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これらの言葉は、すべて
「歌う技術」に関わることだと思います。今回は、「歌う技術について」考えるところを書いてみます。
合唱も「自己表現」の一つの形ですから、
「表現をするための技術」は必ず必要です。極端な話ですが、「音声が出ない」という障害を持っている方には、残念ながら「合唱」という「自己表現」は不可能なのです。また、「C」の音を出しても、どうしても自分から「C」の音が出せない人(音程の感覚がない人)にも、残念ながら「合唱」という「自己表現」は不可能なのです。
結論:
「合唱表現のためには『技術』は必要」です。
こんなことは自明の理で、「何を言っているんだ」とお思いの向きもあるでしょう。ところが、
A・
B・
Cのような言葉が時々聞かれるのもまた事実です。
そこで、これらを私なりに翻訳してみると、
A |
「○○合唱団は、歌心を持って、自分たちが表現したい音楽を見事に表現している。その演奏に接すると、強い感動を覚える。ただし、ソルフェージュ的に高い技術を求められる曲や声楽的に高い技術を求められる曲には、取り組んでいない。」
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B |
「**合唱団は、ソルフェージュ的に高い技術を求められる曲や声楽的に高い技術を求められる曲に取り組み、技術的に高度なレベルで歌っているが、聴いていても感動を覚えない。」
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C |
「△△合唱団は、ソルフェージュ面や声楽面の高い技術を求めているが、その技術ばかりを追求している合唱団だ」
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というような意味合いになるのではないでしょうか。
Aの合唱団が、もし林光の「原爆小景」を表現したくなったら、どうしたって「ソルフェージュ面」の力を付けなければならなくなります。しかし、
「その曲が歌いたくて歌いたくて仕方がなかった」ら、自然にソルフェージュ面の努力をし、
「その曲を歌うに求められる十分な技術」を身に付け、感動を覚えるような演奏をするであろうと思います。
Bや
Cの合唱団に、自分たちは「合唱というものの表現には、こんなにも高い技術が必要なのだ。そして、それを私たちは追い求めているのだ。」という「合唱団としての意思」があるなら、それはそれで存在理由はあるものと思います。もっとも、
私は「技術」というものは、「表現したいものがあって、それを表現するために必要なもの」と考えていますので、
Bや
Cの合唱団には所属しないと思います。
また、オペラ歌手が日本歌曲を、オペラのソリストの発声方法で西洋の言葉のように歌うのを、認めません。私自身、音楽には無関係な人に
「世界的なオペラ歌手が歌う日本語の曲って、変じゃない?」と尋ねられたことが何度もあります。その時に、私は「はい変です」と答えざるをえないのです。日本歌曲を歌うのには美しい日本語を表現するのが第一で、しかも「歌う」という行為の中で、それはどうあるべきかという、難しい研究と鍛錬の後になされるべきことなのに、
外国語の表現方法そのままで日本語を歌うことの無神経さには、呆れます。
Dの合唱団はどうでしょう。
時代の持つ様式や、それが作られた場所独特の美の様式はありますので、それらのどこかに焦点を当てて取り組むという、合唱団の生き方です。特定の時代や表現様式にこだわる行き方を否定する気はありません。昔、「芸能山城組」を初めて聴いた時の驚きと感動を忘れません。自分たちが目指していた世界とこれほど違う表現方法を持ちながら(蛇足を承知で具体的に言うならば、「いわゆる西洋音楽とはちがう美意識表現、地声を中心にした発声方法」)、こんなにも感動させられる音楽があったのだと、当時の私は衝撃を受けました。しかし、もし山城組のような発声方法で、ビクトリアを歌う合唱団があったら、見識がないとしか言いようがないのです。
私は,可能な限り色々な表現を求めていきたいと思っているので、どこか特定の表現様式に入り込みたいと思っていません。
現在のイクトゥスの現状を見るときに、
「技術的な課題」は山積していますが、それはあくまで
「このような音楽がしたい」「このような表現がしたい」という欲求をもとに考えられていると理解してください。
2004-2005合唱団イクトゥス